日記的なただの脳内思考垂れ流しなメモです。
あくまで自分の至った思考ですし、反対意見や視座の違う解釈があればむしろ教えてください。
ただの“今”の自分が思い至ったことです。
恋と愛の違い
「恋は下心、愛は真心」って言われてる
恋の「下心」は相手にこうあって欲しいとかこうなって欲しいとか、こうしたらこうしてくれるかな、と思う見返りや相手のコントロールをしたい。”期待“せずにおれない状態
愛の「真心」は自分がこうしたい、自らが相手にとってこうありたい、そしてそれに見返りを求めない、相手の反応を”期待“せずにいられる状態
って意味なんかな。
客観視とは
物事を「客観的に見る」とか「相手の立場で考える」のが良しとされてはいる
少なからずそう言う“視点”は大事だと思う
ただ「相手の立場で考えて」と思う程自分の視点・主観が研ぎ澄まされているのか
自分の事情・都合を裏に隠した“主観”は相手には伝わらないし、汲んで貰える事は無いよな
「わかってほしい」って言う人はそう思うわりに自分を曝け出してない・出せてないんよな
「相手の客観=自分の主観」は包み隠さず提示して、どうするかを一緒に考えて行動するのが人間関係を良くするってことかな
嘘の感情を吐き出す理性
自分の真にやりたい事は自分の感情に問うと良いらしい。
しかし脳みそは感情を誤魔化してそれをあたかも本当の感情と思わせる事もある。
心(欲求)と頭(理性)は別働として自分と対話する必要がある。
自分が求めている物を歪めようとする固定観念。それが自分の中にある事を知り、認めて、始めて自らの欲求を認識できるんじゃなかろうか。
歩んだ路を疑え
人間は“血と知と地”によって育ちアイデンティティを形成するそうだ。
幼少期に刷り込まれた親の行動言動。自ら得てきた知識。自らが見てきた景色、育った環境。
例えば「山」を思い浮かべて、と言われても想像する「山」は人それぞれ。言葉においては同じものに関わらず人によって「山」は違う。それが固定観念。
固定観念も人それぞれ違う。自分の聞いたことも他人にとっては違う捉え方がされているものである。
自分が見えているものだけが全てではない。でも違う見え方なんて早々出来るもんじゃない。
だから自分の歩んだ路を疑う必要がある。
決して否定ではない。
どこで固定観念刷り込まれたかを認識するのだ。自分がものを“どう見ているか”を意識するのだ。
自分が見えてる物事は「自分がそう見ている」と意識する。
そこを経て自分と他人の違いを知り、他者を慮る事が出来る。
エゴイストでも良いじゃん。
エゴイズム。利己主義。自分の利益を追い求め他人の利益を考えない行動様式。
正直自分はかなりの利己主義だと思ってる。自分に利益がなければ思考すらしたくない。
ただ突き詰めると他者の利益によって自身の利益が増幅する事もなんとなく知ってる。
究極のエゴイストって利己のために利他的な振舞いが出来ると思う。
「情けは人の為ならず」はそんな行動様式を表してんじゃないかな。
中途半端なエゴよりは突き抜けたエゴである方が幸せは大きい。
自分を幸せにしたいが為に相手を幸せにしたい。それが愛ってもんでしょ。
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