ここ最近のちょいとしたネガティブからいろんなことを取り入れて、少し気が楽になってるハリーです。
自分の人生や自分の性格を見つめなおす良い機会でした。
今この時点で見えてきたものを書きとどめておこうと思います。
ほとんどチラ裏みたいなものなのです。
そもそもこのブログがそんなもんか←
「こう思ったからみんなもこうしたほうがいいよ!」ってことでもないです。
ただあるがまま、それだけです。
座禅を組むようにした
瞑想するとか自分と対話することが精神的に良いこと、っていうのは現代社会ではよく言われまくってますね。
でもちょっとスピリチュアルだったり宗教的だったりしてきな臭く感じます。めっちゃ感じます。自己啓発ばっかしてる意識高い系、そんな感じにも見ちゃいます。
ただ漠然と自己対話しても、結果的に怒りや他者への不満なんかの言い訳しか出てこずに“自分”ってものが見えなくなるんですよね。
正直そうなってました。まぁ闇雲に“どうしたら良いか”なんて自力で考えても悪足掻きです←
理論的にというか筋道立てて考えるほうがやりやすいので、自分の感情の捉え方やそもそもネガティブな感情がどういったプロセスで湧いてくるの?ってことを知りました。
そもそも”捉え方”なので真理とは違うと思いますが、この解釈方法が自分にフィットしただけです。
怒り、悲しみ、焦燥、孤独。この感情がどういう事象においてどの欲求に結び付いたのか。そして「あーこの欲求だったのか」と自分で理解する。ここまで自分でわかると案外落ち着けるもんなんですよね。
「わからないことをわかろうとする」「わからないことは”考え”で埋めて安心させる」という一つの知的好奇心と人間であるが故のものだと思います。
自分は”感情”というものが分からないサイコパスなのでそこを埋めようと必死になってました。結果陥るのはネガ思考の無間地獄。気付けば自己否定の底なし沼です。
自分の感情ではなくその根底にある自分の欲求を意識する、それを実践するための時間として「座禅」をするようにしました。
形としては瞑想とおんなじと思います。顕教な仏教徒ってわけでもないし、何なら我が家の宗派違います←
姿勢を正し、深く呼吸をし、感覚をフラットに、そして自分がどうしたいのかどうしたかったのか、それは何故か、何を満たしたいのか、本当に満たされていないのか…
など自分の根底を深堀りすることでようやく”自分”の形が見えてきました。
自分を認めるむずかしさ
先日、人一倍頭使うというか、人が想像していないレベルで常に頭動かして何か考える一種のバグみたいなものを抱えていることが分かりました。考えることを欲した結果ニュースや話題になってる事象を取り上げ唐突にTwitterで時事を切る、みたいなことをしょっちゅうやってました。
政治・経済・人の尊厳・人生とは、なんかの”普段こんなこと考えるひとってなかなかいないかもなー”って事柄を夢想してることもあります。
それによって形作ったアイデンティティ。それを守る・押し通すためにやってきたこと、それは常々思考したり読み物をしたりのある意味”理論武装”でした。「こうだからこう、こうでないならこういうこと」と正しさの証明みたいなものを装備しようとしてました。
でもその装備って思いのほか弱いんですよね、防御面が特に。
そんな装備で大丈夫か?大丈夫だ、問題ない。って思ってました。死亡フラグです←
結局その装備が剥がれたら何があるかって、隠し持ってたコンプレックスが露わになるだけだったんですよ。だから自己否定に走っちゃう。やけくそになって何かを壊そうとする。自分を壊そうとする。めんどくさいって言葉すら足りないレベルの事象です←
今まではそうでした。
ここ最近読んだ本や本の要約動画なんかで得た知見としては
- 「コントロールできないものは考えてもしょうがない」
- 「自分を変えようってもそう簡単に行くもんじゃない」
- 「下手であるならそれをしっかり受け入れて、下手なりにやればいい」
他にもいろいろありますが、大きくはこの辺。
今までの行動や思考傾向、その結果生まれたネガ思考に照らし合わせると正に改善の光明はここだなと。
結局今までは”自分”を守ろう・弱点を隠そうとしてただけなんですよね。
「コントロールできないものは考えてもしょうがない」
人がコントロールしようとするものはたくさんあります。特に無意識にやってしまいがちなのは他者への感情や行動のコントロール。
こうしてほしい、こう考えてほしい、自分のしたことによろこんでほしい。などなど。
自分はそれに加えて「こう動くのはこう言う裏がある」とプロセスを寄せようとしがちです。
この思考に反する事象が起こると怒ったり、悲しくなったり、勝手に相手を蔑んだりして相手に幻滅したりするんですよね。
こうしてほしい、なら単純にお願いごとしてやってもらえたら良いんです。
それ以外はただ勝手に書いた自分の脚本を伝えもせず押し付けてるだけなんですよね。
そんなの考えるだけ、思うだけ労力の無駄。それどころかいいことなんて起きやしない。だったら「これ以上はコントロールできないな」って自覚して相手に委ねればいいんだと。
信頼するから期待しちゃうのもわかります。でも期待という名の”銃口”を向けても相手と良好な関係なんて維持できないです。それが分かりました。
「こうしたい、こうなりたい、こう行動する」これは”自分の課題”。それに対してどう思うか、どうリアクションするかは”相手の課題”。そうやって切り分けて考えるようにしたら気持ちが楽になりました。
「自分を変えようってもそう簡単に行くもんじゃない」
言葉だけとると向上心がない、変われないことへの言い訳みたいにとる人もいると思います。
そうじゃないんですよね。まず一つは「完璧主義からの脱却」。
自分にダメなところ・弱いところがある。そこをとにかく直すんだ、っていうのが一種の完璧主義。ダメであるならなおすべきだ、みたいになっちゃうやつ。
それって実際遠回りだったり、自分をわかってないからこその思考で、その先って「完璧じゃない、完璧になれない自分なんて価値がない」って自己否定したり「完璧になろうとしないあいつはクズだ」みたいに他者にレッテルを貼ろうとしちゃうんですよ。正直これは何の生産性もない。
そうじゃなく、まずはダメなところ・弱いところを認める。自分にはそういうところがあると知る。そこまででステップを止めることが大事だと。そこに良いも悪いもない。判断をしない。結果を焦らない。
完璧超人なんて現世のどこにも居ない。年齢をどれだけ重ねてもそうはならない。だから自分は無意識に持ってた「完璧主義」を自覚し、そこが弱点だと気づいた。
「下手であるならそれをしっかり受け入れて、下手なりにやればいい」
さっきの項目から地続きみたいなもんだけど、ダメならダメなりに考えれば良いし、克服しなくても別のやり方があるかもしれない。
認めてしまえば自分の力量が分かる。その力量でやれるアクションを無理なくやっていく。その継続が最終的に自分を変えることになるかもしれない。かもしれない。
自分の弱点なんて口ではわかってるなんて言っても恥ずかしくて目を逸らしがちだし、自分でちゃんと認めるのもめっちゃ苦労します。だからって自分のありのままを受け止められないと結局自己否定に走っちゃうし物事好転しないんですよ。めんどくさいメーター5周とかしちゃうんですよ。
自分の好きな曲の歌詞に
己の在処を探したいなら 自分の全てを己と知れ
ってあるんですよね。
良いも悪いも、足りた部分も足らぬ部分も、今この瞬間の自分が全てでありそれを知り認めることで自分が見えてくる。そういうことなんですよね。なんで10年もこの曲聴いてきて今更気づいたんだろうね←
結局自分が何者かわかってなかった
今回の自己否定モードからの脱却の試みを通して痛感したこと、それは「自分で自分がわかっていなかった」こと。
さんざっぱらそう言うてきてましたが、ここまで自分がわかってなかったなと。
自分の事は俯瞰で見てきました。それは自分を含む事象を物質的にとらえていたまでのこと。コミュニティのなかでの自分の立ち振る舞いや、自分の行動による他人への影響。考えようによっては”ビジネス的な視点での俯瞰”みたいなことしかできてなかったと思いました。
ハリーさんが”ハリーさん”であるためにやらないといけないと思ってたことしか頭になかった。
それが自分のアイデンティティだと思ってた。
だからなのか”本来の自分”が持ってる嫌なところを無意識に出してしまって「そうじゃなかったのに」なんて自己嫌悪をしていたんだと反省しました。
でも案外周りの人ってそういうとこも気付いちゃってたんだよね。嫁ちゃんとか。
理解したことを自分の口から発して、言語化して共通認識することによって、今回ようやく”自分”の形が見えてきた気がします。
”ハリーさん”であることは一生涯やめられないけど、改めて自分の本質とも向き合って、自分の欲や感情とうまく付き合って生きていこうと思う次第であります。
そして今回で一番の発見。欲深いと自負してたけど、何よりも強いのが食欲でも性欲でも知識欲なく、承認欲だったことが大発見。
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